イラクの現在


 陸上自衛隊の撤退後,日本ではイラク情勢に関心が急速に薄れていったように見える。

 しかし,今日においても,イラクは依然として世界情勢の結節点であり続けている。それは回り回って,日本人にとって関心の深い北朝鮮情勢や中国情勢へも影を落としているのである。

 志葉玲「たたかう!ジャーナリスト宣言」(社会批評社 2007年6月3日第1刷)は,多くの日本人が忘れ去った現在のイラク情勢について,現地取材をもとにした情報を提供してくれる。この本を手がかりに,イラクの現在を素描しておきたい。以下,頁数は,著書の該当頁である。

 湾岸戦争後,イラクは国連安保理事会の決定に基づき厳しい経済制裁を科され,多くの犠牲者を生んだ。経済制裁は食料や医薬品にまで及び,2000年のユニセフ発表では,10年間にわたる経済制裁の結果,150万人に及ぶ一般市民が食料や医薬品不足のために死亡した(14頁)。

 ファルージャは,街中に200以上のモスクを持ち,「モスクシティー」の別名を持つスンニ派地域の街である。住民の多くは敬虔なスンニ派で,他の地域のイラク人からは,「純朴で礼儀正しい人」と見られてきた(82頁)。米軍のイラク占領後,ファルージャは米軍の占領に抵抗し,その過程で民間軍事会社の社員二人がファルージャ近郊で殺害され,焼け焦げた死体が橋げたに吊るされるという事件が発生した。この事件を契機に,ファルージャは,2004年4月と11月の2回にわたり,街ごと米軍の無差別殲滅戦の対象とされた。この4月の第1回目の殲滅戦の最中に,高遠菜穂子さんらの日本人人質事件が発生し,人質バッシングのマス・ヒステリーが日本中を覆った。この時期,ファルージャでは,次ぎのようなことが起こっていた。
 米軍による無差別爆撃により,街中にあるサッカースタジアムは300人以上の遺体が埋葬される集団墓地と化した(83頁)。米軍は病院を包囲し,狙撃してきた。救急車も攻撃の対象となった。このため,負傷者の通報があっても,病院は患者の搬送に向うことができなかった(86頁)。
 この第1回目のファルージャ攻撃は,ファルージャ市民の強い抵抗を受けた上に,シーア派も含めたイラク中の反発を呼び起こし,こうした非難攻撃の前に,米軍はファルージャ武装勢力との停戦を余儀なくされた。

 本当の悲劇は,11月の2回目の攻撃の際に発生した。
 ブッシュ再選直後の11月に,米軍とイラク軍(すくなからぬ部分がシーア派民兵)は街を包囲し,18歳から45歳までの男性は全て戦闘可能年齢とみなし,市外への脱出を拒んだ。封鎖により市内では水や電気の供給が途絶えた(97頁)。11月8日未明,米軍はファルージャ総合病院を占拠し,医師他病院スタッフを「武装勢力」だと称して拘束した(98頁)。米軍は多数の民間人たちを家やモスク内で逮捕後,集団処刑した。その他の人々は米兵の行った戦争犯罪行為を隠蔽するため,家ごと爆破された。犠牲者の遺体をひき潰すために戦車が使われた。米軍の戦車はまだ生きている負傷者達の上を走り回り,ひき潰した。後に市内に入ることを許された医療チームは,集中爆撃のあとにもかかわらず,負傷者をまったく発見できなかった。全て戦車のキャタピラに粉砕されたか,焼き払われたかしたためである。04年12月25日と26日には,病院の緊急チームが,六つの住宅地区からだけでも700の死体を引き上げた。このうち504体は女性と子供の死体,のこりは老人と中年の男性だった。自宅の中で親とともに頭を撃ちぬかれた子供や,体中を銃剣で突き刺された女性の遺体も見つかった。また,ある遺体の頭部は体から切り離され,やはり頭部が切断された別の遺体にくっつけてあった(102頁)。こうした米軍による無差別殲滅戦の犠牲者となった一般市民の数は,2000人から6000人に及ぶと見られている。
 更に,米軍は,街に止まっていた3000人以上の人々を拘束し,屈辱的な檻に放り込んだ。また,米軍は人々を収容者への虐待で悪名高いアブグレイブ刑務所に移送したが,そこでの非人間的な環境のために,さらに多くの犠牲者がでた(102頁)。

 米軍による占領の継続下で,ファルージャ殲滅戦の実態は,未だその全貌が明らかになっていない。しかし,断片的な情報からだけでも,ファルージャ殲滅戦が「21世紀のゲルニカ」と呼ぶべきものであったことは明らかである。

 このようなファルージャ攻撃を,当時の小泉首相は「治安の回復は必要」と支持を表明した(104頁)。

 サダム・フセイン政権時代,イラクではスンニ派シーア派は市民レベルでは仲良く暮らしていた。スンニ派シーア派で結婚することも珍しくなかった。世俗的なサダム政権の下で,スンニ派シーア派の違いは,カトリックプロテスタントの違いほども意識されていなかった。

 スンニ派シーア派の差異が際立ち始めたのは,米軍占領後である。占領軍はイラク分断統治するために,意図的にスンニ派シーア派クルド人の3派の違いを事あるごとに強調した。こうした政策の流れの下に,スンニ派シーア派ごとの宗派,政党が形成され,イラク社会の分断化が進んだ。

 スンニ派シーア派間に不協和音が生まれたのは,2004年11月の米軍による二度目のファルージャ総攻撃の頃からだった。4月の1回目の攻撃のときは,シーア派民兵のマハディ軍も含めて一致して米軍のファルージャ攻撃に反対の声を上げたのが,11月の攻撃のときは,シーア派民兵を主体に構成されたイラク軍も加わり,スンニ派住民主体のファルージャ攻撃に参加した。この時期,スンニ派シーア派間では,「なぜ米軍の非道に対して黙っているのか?」「そちらこそテロリスト達を何とかしろ」と激しいやりとりがあったという(108頁)。ファルージャ総攻撃に憤ったスンニ派政党は,2005年1月末の国民総選挙をボイコットし,イラク政府はシーア派クルド人主体で構成され,スンニ派イラク政治から排除される結果となった(109頁)。

 それでも,2005年初めころまでは,上記「たたかう!ジャーナリスト宣言」著者の質問に対して,バグダッド在住の友人が「イラクで内戦が起きるかだって?キミは欧米メディアに毒されすぎだよ。彼らはわれわれイラク人を分断しようとしているんだろうけど,イラクは一つだ。内戦なんかあり得ない」と答えられる状態だった(106頁)。

 2005年4月,シーア派政党でイランの影響力が強い「イラクイスラム革命最高評議会(SCIRI)」のバヤーン・ジャブルが内務大臣に就任し,治安部隊にSCIRIの民兵組織「バドル軍団」が政府の治安部隊を掌握したことにより,事態は一気に悪化した。SCIRIはサダム・フセイン時代に苛烈な迫害を受け,イランに亡命した経歴を持つ。スンニ派を「サダム支持層」と憎む「バドル軍団」は,治安機関を牛耳った後,スンニ派住民を次々に捕らえ,凄惨な拷問を加えた挙句に殺害,放置するというテロ行為を繰り返すようになった(111頁)。
 
 不幸にも治安機関に拘束された人は,ワイヤケーブルで鞭打ちされたり,熱湯をかけられたり,熱した金属を体に押し付けられたり,電気ショックにかけられたりする。電気ドリルで体に穴を開け,その穴に硫酸を流し込む。このような拷問は,サダム・フセイン政権時代にも見られなかった(113頁)。

 家族の誰かが警察に逮捕され行方不明になったら,まず遺体安置所を探す。今のイラクではこれが常識だという(113頁)。

 こうしたテロ行為を行っているイラク治安機関を組織したのも米軍である。その残忍さから「イラク最凶最悪の部隊」と恐れられる対テロ精鋭部隊「オオカミ旅団」は,2004年10月に,米軍とSCIRIのメンバーによって創設された。主にバドル軍団などのシーア派民兵組織から精鋭が選りすぐられ,イラク北部のモスルで米軍による訓練を受けている。この「オオカミ旅団」が,「テロリスト掃討」を名目にスンニ派狩りを開始,イスラム法学者協会のメンバーなど宗教指導者や一般市民を次々に捕らえては虐殺していった(114頁)。

 抵抗勢力の抵抗に直面した米軍が,抵抗勢力の反対派を組織してカウンター・テロ部隊を創設し,この部隊に残忍なカウンター・テロを行わせて抵抗勢力の殲滅を図るというのは,アメリカが「裏庭」の中南米で常日頃から行ってきた常套手段である。

 2006年2月,イラク中部のサマラでシーア派のアスカリ聖廟が何者かによって爆破された事件により,宗派間対立は一気に激化した。事件後24時間で,シーア派マフディ軍や他のシーア派民兵達は,スンニ派のイマムや信徒130人を殺し,168のスンニ派モスクを燃やした。警察ですらスンニ,シーア両派に分かれて殺しあうという事態になった(117頁)。

 こうして,宗派対立は収束のきざしを見せず,イラクでは毎日100人以上の命が奪われ,毎月10万人以上のイラク人が国外に難民として流出している(106頁)。

 こうしたイラクの情勢を根底で規定しているのは,スンニ派を主体とする反占領武装抵抗である。一向に衰えない武装抵抗に直面して,米軍は攻撃を受けるたびに,攻撃地点付近の民家を片端から捜索し,報復的に家の中を徹底的に荒らし,あやしいと見れば有無を言わさず住民を拘束・連行し,拷問にかけるという行為に及んでいる。こうした行為は,イラク全土で日常的に行われている。
 拘束された者は,暴行を受け,体についた血を軍用犬になめさせる(イスラム教では犬は不浄な動物とされている)。家具は全部といっていいほどに壊され,穀物貯蔵庫に農薬がばら撒かれる。現金や貴金属があれば,「テロリストの資金源となる」という名目で奪い去る(137頁)。

 こうした行為は,武装抵抗活動に対する無差別報復であるとともに,武装抵抗勢力がいるからこういう目に遭うと思わせることを目的として,なされている。しかし,こうした行為は米軍に対する憤激と嫌悪をますます強め,更なる武装抵抗活動を生むという悪循環に陥っている。

 かって,コッポラは,ベトナム戦争をテーマに,「地獄の黙示録」を作成した。

 現在,イラクに現出しているのは,正真正銘の地獄である。イラクは,血の海と混沌の中へ,「地獄よりも酷い」(106頁)状態の中に落ち込んでいる。これが,ブッシュ政権による「イラクの自由」作戦(9頁)の帰結である。こうした事態を招いた主たる責任がブッシュ,ブレア政権にあることは自明であるが,では,この地獄からの出口はどこにあるのか。

 現在のイラクの凄惨さは,イラクを占領している米軍の重圧に比例している。排除すべき敵が強大であればあるほど,戦いは凄惨さを加えずにはおかない。同時に,それは米軍,ひいては,アメリカが陥った苦境の大きさにも比例している。それほどまでに攻撃と威嚇を加えても抵抗が止まないが故に,更に残忍と凄惨を増さざるを得ないのである。

 アメリカとイギリスがイラクの地を去らない限り,イラクの人々の苦難は終らない。かといって,占領の終了があれば苦難が終るとも言えない。後に残されるのは,引き裂かれた祖国と対立しあう宗派,エスニシティである。それは,周辺諸国を巻き込み,中東全体を不安定化させてゆきかねない。そこでは,様々な国内外の諸勢力が暗躍し,合従連衡を繰り返す「グレートゲーム」の場となるだろう。

 かくして,中東に巨大な動乱の地が誕生している。それは,かっての19世紀のバルカン,第一次大戦後の中国大陸のごとく,世界全体を不安定化させる「火薬庫」となりかねない。

 私たちは,今,かの地で起こっている出来事を見守るしかないだろう。国際道義を問う時期は過ぎ,少なくとも中東地域では,非情な政治的軍事的抗争が情勢の帰趨を決するだろう。

 そうした時代を迎えて,私たちは,世界にかかわる評価軸を,国際政治経済分析とは,やや別の場所に移し変えてゆく作業も必要になるのではないだろうか。