チベットの騒乱

 北京オリンピックを前に,中国のチベット自治区で中国の抑圧的政治への抗議行動が拡大し,一部は暴動化して,世界の耳目を集めることとなった。
 聖火リレーも抗議活動の標的となり,世界各地で聖火リレーが妨害される事態になった。

 チベット人は独自の言語,歴史,宗教,習俗を有し,中国人(漢民族)とは区別された,確立した民族アイデンティティを保持している。

 これに対して,政治的帰属に関しては,歴史的に,中国,あるいは,モンゴルとの間で,微妙な関係の中に置かれてきた。

 既に元の時代に,中国を支配したモンゴルは,チベットにも勢力を伸ばし,一定の服属関係に置いた。明の時代を経て,満州族の支配する清の時代には,清はチベットダライラマの宗教的権威を承認する代わりに,チベットの「保護者」として振る舞い,対外的にチベットへの宗主権を主張した。清朝末期の20世紀初頭にチベットを訪問した日本の河口慧海は,チベット人清朝皇帝を祝賀し,チベットには清の兵隊が駐屯していたことを記している。
 反面,チベット仏教の影響はチベット外のモンゴル,更には中国本土に及び,清朝時代以降の「中国」領域では,満州族,漢族,モンゴル族チベット族の様々な相互交流が展開された。

 19世紀末から20世紀初頭のかけての帝国主義時代には,列強は混乱する中国の周辺地域にこぞって己の勢力の扶植を試みた。チベットもその例外ではなく,英領インド帝国を足場にしてイギリスが進出を試み,これに対抗するロシアも接近を試みた。

 清朝が崩壊し,中華民国が成立したが,中国の混乱は続き,その合間を縫って,チベットは独立志向を強めた。1913年には当時のダライラマ13世により独立宣言が発せられたが,その後に至るも,列強の承認を得るに至らず,かえって,列強は中国の宗主権を承認し続けた。これは,当時のチベットが中世封建時代に類する発展段階に止まり,従って,国際社会において己の主張を受け入れさせるだけの力を持たず,また,地政学的にも,チベットは中国の勢力範囲とみなされていたためであろうか。

 現在のチベットの窮状は,こうした歴史的経緯の帰結でもある。

 中国共産党による中華人民共和国成立後,中国は清朝以来の歴史的経緯に訴えてチベットへの主権を主張し,人民解放軍を進駐させてチベットを制圧した。その後の惨劇については,多くの者の語るところである。

 その結果として,今日のチベット問題があるのであるが,現在,チベット問題とは,端的に,チベット人による民族自決の主張の問題,裏返せば,中国によるチベット植民地化清算の問題と写る。
 しかし,帝国における植民地独立運動問題は,帝国にとっては厄介な,一つ間違えば命取りになりかねない問題であって,そのことは,イギリス帝国におけるインド問題,フランス帝国におけるアルジェリアベトナム問題,大日本帝国における朝鮮問題を想起すれば自ずと明らかである。それだけに,中国は容易に妥協はできないであろう。

 今回の事態で,チベット問題が台湾問題と並んで中国のアキレス腱であることが浮き彫りになった。
 今後,「先進諸国」の台頭する中国に対する揺さぶりは,露骨な軍事的威嚇よりも,むしろ,人権問題や環境問題に主眼が置かれるようになろう。そして,それは,長い目で見て,歓迎すべきことであろう。

 このことから,チベット問題に対する立ち位置の取り方も,おのずと明らかになるであろう。
 
【参考文献】ロラン・デエ「チベット史」(春秋社)