政権交代についてのメモ書き(4)

 戦後初期の日本の政治社会は、米軍占領のもとでの革命的情勢下で、日本共産党とそれが領導する労組・社会団体の躍進と激しい運動が展開されていた。その後、冷戦の開始に伴う占領政策の変化により、共産党と関係諸団体に対する強権的抑圧が始まり、労組においても反共の立場の民主化同盟(民同)が占領軍の後押しもあって、共産党から主導権を奪っていった。

 いわゆる55年体制は、こうして左派勢力内の主導権を共産党から奪った社会党−総評ブロックとこれに対抗して保守合同によって生まれた自民党に代表される保守勢力とによって成立した政治社会体制である。それは、当初、自民党社会党との欧米式2大政党制の幕開けとも評されたが、実際には、社会党は国会内で自民党議席の2分の1程度に止まり、政権獲得に至らなかったことから、「1+1/2」体制と揶揄された。

 こうした55年体制は、当時の日本の国際政治的配置図と日本における左派勢力の辿ってきた軌跡との交差線上に成立したもので、それが欧米式の2大政党制に発展しなかったのは、それなりの必然性があったと言える。

 言うまでもなく、欧米諸国における共産党社会民主主義諸党との分岐・対立は、第一次大戦ロシア革命時における第2インター内の社会主義勢力の路線対立に由来する。このとき、資本主義市場経済の廃棄と国家・民族の名においてなされる戦争に対して階級闘争に基づく内乱を主張したレーニン率いるボルシェヴィキに対して、ドイツ社会民主党を初めとする欧州社会民主主義勢力は、社会主義のドクトリンに対する「修正主義」的態度に次第に赴くようになり、また、戦時における国家民族との和解に赴いたのであって、ここに共産主義社会民主主義との分岐が生じたのである。そして、共産主義との対立の中で、欧州社会民主主義諸党は、欧米流の自由民主主義的市場経済的政治社会体制と折り合いをつけ、「体制内」的勢力として自らを位置づけていった。ここでは、共産主義社会民主主義との対立は、体制選択の争いとして、提示されることになったのである。

 これに対して、日本の左派勢力は、戦前から継続する強固な保守地盤に囲まれ、また、日本を極東における反共の基軸とすることを目指す占領政策の転換の中で、これに過度に同調すれば反共=親米的、階級協調的方向に過剰に引きずられやすく(民社党がその典型である)、こうした途をとらずに革新のエッセンスを貫こうとすれば、社会民主主義的傾向を目指すものであっても、それなりの戦闘性を以て「体制」側と対峙することが求められたのである。また、社会党内には戦前からの伝統を踏まえた労農派マルクス主義の強力な潮流があり、このことも相まって、社会党は欧州的社会民主主義政党へと純化することなく、社会民主主義共産主義との中間的潮流として自らを位置づけることになった。こうした社会党の性格は、例えば、ヴェトナム戦争において、欧州の社会民主主義諸政党はこれを共産主義との戦いと位置づけて、アメリカ支持の立場を打ち出していたのに対し、日本社会党は明確なベトナム戦争反対の主張を展開し、強力な反戦活動を行っていたことに示されている。
 こうして、社会党の活動は、一方では共産党の日本における伸張に歯止めをかける社会民主主義的潮流としての役割を期待され、現にそのような役割を果たし、他方では、親共産主義的傾向を抱え、共産主義諸国家との関係も構築しているという、「ユニーク」さを帯びることになった。こうした社会党の二面的性格は、一方では対決法案における激突戦術や国会外における大衆運動による圧力という手法を用いながら、他方では悪名高い「国対政治」により、裏では自民党と癒着していたという活動形態をも生むことになった。
 55年体制における「1/2」政党という社会党の位置づけは、以上のような社会党の中間的、二面的性格を正確に反映していたのであって、社会党が政権獲得に動かず、抵抗政党(及びその結果としての利益分配)に止まっていたのは、(自由民主義体制内における)政権獲得に動けば、日米安保への評価に代表される「体制選択」問題に直面せざるを得ず、そうなれば、社会党の二面的性格自身が維持できなくなったからでもある。この点は、後に自民党と連立政権を組んだ村山内閣が行った自衛隊日米安保承認に起因する党勢衰退、社民党への組織替えとして現実化した。

 このように社会党が欧州流の社会民主主義政党に純化する可能性が閉ざされた結果、当初は自民党と(社会民主主義化した)社会党との2大政党制を模索していた体制エリート達は、自社2党制に代わる保守(ないしリベラル)2党制の樹立を模索するようになり、こうした動きが70年代頃から出始めた。この保守(ないしリベラル)2党論に基づく制度改革が実行に移されたのが、細川内閣下で行われた「政治改革」とこれに基づく小選挙区制の導入であり、そして、民主党は、この「政治改革」を踏まえて結成された政党である。

 従って、民主党はその結成の経緯から、社会党的なるものを否定して出てきた政党であって、社会党的なるものの排除は、民主党の性格の根幹に横たわっているものだと言える。