沈黙の夏

 太古の昔から,蝉の鳴き声は夏の風物詩だった。
 夏の始まりから終わりまで,さまざまな蝉の鳴き声が,リレーのように移り変わり,夏の時の経過を知らせていた。
 初夏のニイニイゼミに始まり,盛夏前半のミンミンゼミ,アブラゼミ,盛夏後半のクマセミ,夕方にはヒグラシ,そして,晩夏にはツクツクボウシが夏の終わりを告げた。
 ツクツクボウシが鳴き始めると,子供達は夏休みが終わりに近づき,宿題に取り掛からなければいけないことを気づかされた。

 昨年からだったと思うが,ツクツクボウシの鳴き声を聞くことがなくなった。昨年は京都に行ったときに1回,今年は高野山に出向いたときに1回,それも一匹だけが寂しく鳴いていたのを聞いただけである。
 これは,私が住んでいる地方だけの,ここ2年間の限られた現象なのだろうか。それとも全般に見られるものなのだろうか。

 異変はツクツクボウシだけではない。クマセミの声だけがやたらに目立ち,他のセミの鳴き声も減っているように思える。夏に入った途端に,いきなりクマセミの大合唱となり,これにわずかに他のセミの声が混じり,8月20日頃を過ぎると,こんどはばったりとセミの鳴き声が聞こえなくなる。本来,ツクツクボウシがうるさいほどに鳴いていた季節が,沈黙に包まれてしまうのである。

 こうした現象は,別にセミだけではない。
 かつては,街中でも当たり前に目にしたチョウ,トンボ,カナブン,アリ,ミミズ等々は,絶えて目にしなくなった。それどころか,ゴキブリさえ目にしなくなった。

 かくして,この国の花鳥風月の一部だった虫達が人の世から消え去り,若い人達の中には,虫に接するのを毛嫌いする人が増えているという。

 そうした中で,セミだけは健在だったのだが,街中からの自然の駆逐は,とうとう,セミの鳴き声にも及んできたのだろうか。

 私がここで述べているような問題は,今日では,環境問題,自然保護問題として論じられるのが普通である。
 しかし,この問題は,同時に,国土・風土の問題,その崩壊と消滅の問題でもある。そして,民族・国家の文化は,国土・風土に根ざしたものであるから,その崩壊と消滅は,民族・国家の文化の崩壊と消滅にも連なる。少なくとも,かつての日本文化が,花鳥風月をその不可欠の要素としていたことを考えれば,このことは容易に理解できよう。

 しかし,このような観点から,わが国の自然,景観の破壊を問題にした論者は,少なくとも私の知る限り,京都学派の評論家,故唐木順三以来,絶えてしまったように思える。
 それは,この国のナショナリスト達が,国のあり方を軍事,政治,経済等の観点からのみ見て,文化的要素に目が向いていないからであろう。

 その意味で,彼等今日の日本主義者達も,結局は,鹿鳴館の末裔なのであろう。