自同律の不快

 最近の世相に対していて,「AはAである」という自同律が目の前に立ちはだかっていて,押しても引いてもびくともしない,そのように受け止めよという,これを疑ったり否定したりすることは,およそ考えられもしない,歯牙もかけられない,爪さえもたてることができない,そういう論理なり存在なりが,ごろんところがっているという,そんな感覚にとらわれてしまう。

 では,これにどう対すればよいかといえば,そんな疑問なり質問なりが発せられること自体がおかしく,只,「AはAである」という自明の世界をそのまま受け入れればよいのだと答えられそうである。

 それにもかかわらず,疑問なり質問なりを発せざるを得ないとすれば,それは,その発話者にとって,眼前の「AはAである」という論理なり現在なりが,不快だからであって,そうだとすれば,どうして眼前の現実は不快なのか,その拠って立つところを,己自身に問いただすところから,出発するしかないであろう。

 ここでは,既に同行衆がいるのかどうかも判然とせず,民がその声に耳を傾けてくれるという根拠のない希望もいったんは捨てなければならず,自己のみをよりどころにして,只一人,妄念を抱えて,山深く,道なき道を辿ってゆくような,そんな心構えが必要であろう。

同時に,目の前にある「AはAである」という現実と対座し,凝視し,包括する作業でもあろう。