安倍内閣を支えるもの(2)

 要するに,かつて社会党共産党,とりわけ社会党に投票していた社会主義者共産主義者,それに「リベラル」な層が,投票すべき政党が,雲散霧消してしまっている。西欧のような社会民主主義政党もなければ,アメリカの民主党のような政党もない。逆に言えば,そうした受け皿となる政党が確立されれば,現在のいびつに右傾化した政治情勢は均衡を回復する。これもわかりきった話であり,かつては民主党がその受け皿となると期待され,現在は,立憲民主党がその受け皿として期待されている。

 しかし,こうした期待は裏切られ続けてきた。「リベラル」であるはずの政党が,いつの間にか「保守」に引きずられてしまうのである。野田体制に帰着した民主党,前原体制に帰着した民進党,いずれもそうである。自覚的に「リベラル」であると意識している議員が実はあまりいない。むしろ,かつての55年体制の枠で判断すれば,自分は「革新」イコール社会主義者共産主義者ではなく,どちらかといえば「保守」いこーる自由民主主義者も含む意味での「保守」だと考える者が多いのだろう。かくして,政党配置は常に「保守二党制」へと引きずられてしまう。つまり,かつての「民社党」的なメンタリティが常に頭をもたげてくる。

 こうした流れを脱して,「容共的」「容社会主義的」潮流が形成されなければ,言い換えれば,「戦後民主主義的」「反ファシズム人民戦線」的な潮流が再形成されなければ,蹉跌はいつになっても続くだろう。

 それができないというのは,この国が「反ファシズム」を血肉化できておらず,また,「冷戦終結」の本当の総括ができていないということに帰着するだろう。