国策捜査?


 東京地検特捜部が小沢民主党代表の秘書を政治資金規正法で逮捕した事件に対して,これは国策捜査ではないかという声が沸きあがっている。
 これに対して,検察は西松建設の裏金を追って小沢代表に行き着いただけであり,検察は公正に捜査を行っており,国策捜査という批判はあたらないという意見もある。

 今回の捜査が国策捜査であるという意見に対して批判的な人達の多くは,日本の検察は政治的思惑に左右されずに中立公平に正義を実行しており,また,検察を初めとする日本の司法権の独立は守られていて,政治介入の余地はないと考えているようである。

 今回の東京地検特捜部の強制捜査に対するこうした見方は正しいだろうか?

 一般的には,日本国民の司法権に対する信頼度は依然として高いように見える。ここで,国民の司法権に対する信頼とはどのようなものかと言えば,それは,司法権が時の権力(政治権力や行政権力)に左右されることなく,また,自らの利益を守るために使われることもなく,中立公平にかつ廉潔無私の精神で行使されているという信頼だと言える。
 ここで,司法権の行使が中立公正,廉潔無私に職務が行われるべきことが要請されるのは,単に(政治や行政をも含む)公務遂行一般でも要求される心構えといったレベルのものに止まるものではなくて,司法権の本質に由来するものである。司法権は文字通り,「法」を司る権力であるが,「法」の指導理念は正義公平にありとされ,そして,正義公平の本質とは,「等しきものは等しく,等しからざるものは等しからざるように」とされる。
 具体的に言えば,同じ程度の犯罪を犯した者は,同じ程度に処断されるべきであり,同じ程度の犯罪を犯したにもかかわらず,一方が重く処断され,他方が軽く処断されたり,甚だしきは,他方が処断を免れたりすれば,人々はこれを「不公平」であり,恣意的であると感じる。また,自らないし「仲間」の利益を守るために,あるいは,その処断を免れしめるために,ことさらにその権力が濫用された場合には,やはり,正義公平は害されたとみなされる。あるいは,犯した罪の程度に比して,なされた措置・処断が重過ぎると判断された場合(例えば,極端な例で言えば,パンを1個盗んだ者を死刑に処するなど),やはり,正義公平の理念に反すると見られる。

 司法権の行使,具体的には裁判が,正義公平に行使されることによって,あるいは,人々からそのように行使されていると信頼されていることによって,初めて,司法権はその固有の権威を帯びることができる。逆に,一旦,これが,司法権は権力者や有力者に有利に恣意的に行使されていて,庶民や弱者はないがしろにされていると思われたが最後,司法権は侮蔑と恐怖の対象にしかならない。

 今回の東京地検特捜部による小沢代表秘書への強制捜査は,果たして,上の正義公平の理念に照らして,問題なしと言い切れるであろうか?

 今回の強制捜査の対象とされた献金は,政治資金規正法に則って届け出られている「表の金」であり,隠密裏に授受された賄賂性の高い「裏の金」ではない。
 しかも,政治資金規正法の規定では,終始報告書に記載することが要求されているのは「寄付をした者」であって,寄付の資金を誰が出したかについては,報告書に記載する義務がない(週刊朝日3月20日号の郷原信郎元検事コメント「不可解な?微罪?での強制捜査 検察は違法性を立証できるのか」)。
 政治資金規正法違反は,報告書の記載を誤ったという形式犯であり,これまでの先例では,報告書の記載の修正で処理されていた案件である(週刊文春3月19日号の記事「小沢代表がマジギレした書かれざる理由」)。
 西松建設がらみで名前の出ている政治家は,小沢代表以外にも,二階経済産業大臣尾身幸次元沖縄・北方対策担当大臣,森喜朗元首相などがいる。それにもかかららず,強制捜査後,漆間官房副長官は記者達とのオフレコ会見の場で,「これが自民党議員に広がることはないと思う。」と発言した(週刊文春3月19日号の記事「史上最低の『ドロ仕合』」)。
 今回の強制捜査は,麻生首相の支持率が10%台まで低下し,選挙後は小沢代表を首班とする政権交代必至と見られ,そればかりか,「小泉構造改革」の本丸であった郵政民営化に関して,「かんぽの宿」売却にまつわる疑惑が問題とされており,旧来の自民党に代表されるこの国の支配体制総体がどんづまりにきていた,それだけに政権交代を突破口とした根本的な変革の必要性が人々の意識にのぼりつつあった,正にその時期に行われ,それまでの流れに棹差したものであった。

 こうした種々の疑惑を伴う今回の強制捜査が,国策捜査との疑いを抱かれたのは,当然であったと言わなければならない。

 人によっては,国策捜査か否かということが問題なのではない,小沢代表の秘書が法に触れる行為をしたかどうかだけが問題だとも言う。
 しかし,仮に誰かが法に触れる行為をしたとしても,その人が他の同様な行為をした人に比して不当に重い処断を受けたり,他の同様な行為をした人が不問にされてその人だけが処断されれば,それはやはり正義に反する事態なのである。
 こうした論を立てる人は,純然たるでっちあげだけが政治弾圧だと思っているフシがあるが,それはナイーブな見方である。

 司法権は,人の生命をも奪うことのできる,究極の権力である。
 そうであるだけに,権力者が司法権力を濫用すれば,権力者は思いのままに自らの望みを実現することができる。
 そのような濫用の危険性があるからこそ,司法権は時の政治権力,行政権力から分離され(三権分立),かつ,他の権力の干渉を受けずに(司法権の独立),正義公平の理念に則って,法のみによって自らの権力を行使すべきものとされるのである。こうした制度的枠組みと司法官の自己抑制があって初めて,国民は司法権の濫用による弊害から逃れることができる。

 今回の事態は,検察が上に述べたような司法官としての制度的枠組みの中にある存在なのかどうか,司法官としての自己抑制がなされていたかどうかが問われていると言える。
 更に言えば,検察官は,本当に上に言うような司法官なのか,それとも,その本質は別のもの(例えば,行政官)なのかという,検察の本質に関する考察も,求められていると言えよう。