検察の権力

 権力を,自らの意思を他者に対してその意思に反しても強制しうる力と理解した場合,日本の検察はどの程度の権力を持っているのだろうか。

 既に述べてきたとおり,検察は行政官庁の一つである法務省をその実質的支配下に置いており,刑法,民法,商法,訴訟法など,日本の国家社会秩序の基層をなしている,諸法の制定,改正,運用を司っている。これらの基本法は裁判所における民事,刑事,家事の各裁判の基準となるものであり,また,東京大学法学部を初めとする各大学法学部(大学院を含む)の基本科目でもあって,これら各基本法の改正問題等を審議する法務省傘下の法制審議会には,日本における法学部の有力教授が参加している。検察の支配する法務省は,こうした基本法関係業務を所轄し,更には,出入国管理,刑務所その他の矯正施設の運用,不動産取引秩序,会社設立の根幹をなす登記業務などを所管することによって,日本の基層的な法秩序,国家社会秩序を維持するという役割を担っている。

 これに加えて,検察は,捜査,公判,更には刑確定後の刑務行政(刑務所その他の矯正施設の運用)をもその管轄に置くことによって,それは極限的形態としては,死刑執行という究極の権利行使をも所轄することによって,究極の国家社会秩序維持作用であるところの刑事司法の全過程において主導的役割を果たし,「検察司法」の名をほしいままにしている。これは言い換えれば,司法権である裁判所がその本来の役割であるチェック機能を十分に果たしえていないということであって,本質は行政権である検察が,刑罰権という最も強大な権力をほぼその意のままに行使しえているということを意味する。

 こうして,検察は,国家社会秩序維持・強化の担い手として,目立たないながらも極めて強大な権力を有し,これを行使している。その権力は一般市民のみならず,体制秩序への反逆者,政治家,更には他の官庁の官僚に対しても向けられる。あたかも平安時代検非違使のように,検察は他の国家機関に対する監察官としての役割を以て任じ,国政全般に対して睨みをきかしている。

 このような秩序維持,監察の権力は,これが他の権力の道具と化し,あるいは,自らがその権力を濫用するようになれば恐るべき結果をもたらす。司法権の独立が保障され,公正な裁きが受けられるように弁護人選任権や証人対質の権利などが保障されているのは,こうした秩序維持権力の濫用を抑制するための制度的な保障なのであるが,日本では裁判所の検察に対する抑制が脆弱であるため,検察の権力を抑制するものとしては,弁護人の粘り強い訴訟活動ぐらいしかない。それも,場合によっては,検察御用達メディアによる「人権派弁護士」バッシングを覚悟しなければならず,そして,こうした弁護人による訴訟活動も,有罪率99・8%の現状では,検察にとって,特段,負担となるものとは言えない。

 また,検察は本来,行政作用であり,その行為については内閣を通して国民代表機関たる国会に対して責任を負う立場にある。このため,裁判所と異なり,違法不当な検察権の行使に対しては,国会による問責を行うことに支障は生じないはずである。ところが,日本では,検察権が「司法権」の一環であり,みだりに政治的圧力を加えてはならないという観念があるため,実際には,国会の場で検察に対する監督を行うことには抵抗が生じる。

 このように,他の機関からのチェック・アンド・バランスが働かない状態の下では,検察権力が公正に行使されることを担保するものとしては,検察官の「心がけ」にしか頼れないということになる。そうであるが故に,これまでこの国では,検察官は法的正義に則り,清廉な職務執行を行うことが要請され,かつ,実際にそのように振舞っていると思われてきた。

 事実,個々の検察官の多くは正義感を持ち,公正に職務を行っているだろう。検察官の多くが腐敗し,保身ばかりを考え,権力欲に取りつかれていると考えるのは,実態に反するだろう。しかし,反面,検察官も人間であって,聖人君子ではないから,誤りも驕りもありうる。また,自らは正義公平に職務を遂行していると考えていたとしても,その考える正義公平が独善に陥り,あるいは時勢に合わなくなっているときは,そうした歪んだ正義感は却って破壊的効果をもたらす。

 今回の事件は,これまで検察,とりわけ,特捜検察に対して抱かれてきた「天に代わって悪を懲らす」機関という社会通念が,果たして妥当なものであったのかということについて,根本的な疑念を投げかけるものだった。そして,ことは強大な秩序維持・監察権力の適正さ如何にかかわるものであり,この国の政治意思形成に対する検察権力の介入の是非という,国家の進路の根本にかかわる問題である。
 もし,今回のような検察の政治過程への介入が,形式的合法性がありさえすれば無条件に許されると解するならば,可能性としては,検察による無制約かつ恣意的な介入に対する歯止めは何もないということになってしまう。こうした検察の暴走と見られる動きに対しては,言論による批判,国会における追及,政権交代に伴う検証,制度改革の模索,御用化したメディアの事件報道に対する制度的見直しなど,広範な角度からの徹底的な検討が必要不可欠である。

 こうした作業が行われず,「国策捜査」的動きがこれからも繰り返され,メディアと一体になった裁判前の社会的抹殺が横行するといった事態がこれ以上続くのであれば,変革を求める民衆にとっては,秩序維持権力の象徴に対する直接攻撃,即ち,「バスチーユ監獄襲撃」だけが,残された最後の手段であるといわなければならない。