憂鬱な季節

 春だというのに、一向にはっきりしない季節が続く。

 昨年の政権交代から半年余りを経て、民主党政権は迷走の極みに至っている。

 迷走の理由ははっきりしている。検察が民主党幹部を狙い撃ちした意図的な捜査を仕掛け、普天間基地移設問題がアメリカとの軋轢を生じ、この主に二つの問題を標的にしてマスメディアが集中的な民主党批判を続けたからである。

 検察の捜査が意図的なものであることは、総選挙の前から今日に至るまで、もっぱら民主党だけを対象に捜査が行われていること、その態様が極めて執拗、かつ、強引であること、捜査の対象が小沢、鳩山、石井、日教組関係と、民主党の中枢を狙って繰り返されていること等、これらの状況証拠に照らせば、疑いの抱きようもないだろう。この検察の捜査を民主党と検察の権力闘争と見ることができず、たまたま偶然が重なって結果として民主党に集中したのだとか、検察は粛々と事件を処理しているだけで民主党だからといって捜査を手控えては却って政治的配慮をしたことになるとか、現場の暴走を検察首脳部が押さえられなかったためだとか、検察批判は「小沢信者」の為にする批判だとか解するのは、政治的お人好しの言であって、民主党を批判する側も、皆が皆、そこまでのお人好しではないであろう。

 そうだとすると、特捜検察の本質、存在理由が問題となるのであるが、結局、特捜検察とは、政治の粛正、腐敗防止を旗印とした政治部門への統制機関、現代の検非違使であって、その本質はウォルフレンの言うところの日本の支配者たる「アドミニストレーター」、即ち、官民を通じて張り巡らされている、官僚、企業経営者、マスメディア幹部、御用学者等々からなる、非公式の人的ネットワークの、「若き親衛隊」に他ならない。こうした検察の本質は、ウォルフレンの日本権力論(その代表作が「日本権力構造の謎」)に接したことがあれば、すぐに了解できるのであるが、左右を問わずに存在する「政治的お人好し」の人達の中には、ウォルフレンの議論に接したことがないのか、いま一つ納得がゆかないでいる人達もいるようである。しかし、先ほども述べたように、民主党批判者、検察擁護者の全てがこうした「政治的お人好し」ないし「善男善女」であるはずもなく、一見的外れに見えるような議論を展開している人の中には、少なからぬ数の、「為にする議論」をしている人達がいると解するべきであろう。マスメディアは、その典型である。

 そして、民主党に対峙し、批判し、その打倒を目指している、この国の既成の権力ネットワーク、国会こそあけわたしたものの、官庁、経済界、マスメディア、学会等々の中枢部を未だに掌握しつづけている主流派勢力の、その背後に存在し、日本権力構造の要に位置しているのが、アメリカ合衆国であることも、言うまでもない。普天間基地移設の問題は、こうした日本の権力配置図を焙り出す作用を持った。その結果はといえば、民主党アメリカを含む既成権力ネットワークから総包囲状態にされてしまったのである。

 問題は、ここから始まる。
 民主党内で、政権奪取から権力基盤確立に至る過程で生じるであろう権力闘争の苛烈さを予測していたのは、おそらく小沢だけであった。あとの少なからぬ人達は、自分達は「革命」を起こしたわけではなく、議会制民主主義という体制の中での政権交代を成就したに過ぎないと思っていたし、その結果として、それまでの権力構造を根底から覆すつもりもなかった。そうである以上、自分達がこれほど攻撃されるという予測もしていなかったし、用意もしていなかった。だから、攻撃を受けて狼狽し、小沢を生贄として差し出せば攻撃が止むのではないかと考えたり、既成の権力ネットワークと和解して生き延びようという試みを始めたりした。こうして、民主党内は右往左往の状態になり、攻撃する側の思惑どおりに、「良い子の民主党」へと、徐々に誘導されようとしている。しかも、そのことをして、小沢勢力が入ってくる以前の、「古き良き民主党」への回帰だと夢想する向きも出ている。

 その結果はどうなるか。
 少なくとも先の総選挙で、共産党でも社民党でもなく民主党に投票した国民の中には、それまでの自民党政治の行き詰まりに危機感を抱き、根底的な世直しを期待していた人達が少なからずいた。
 こうした人達は、空虚な排外イデオロギーの代りに生活を求め、小泉構造改革で破壊された社会の建て直しを期待し、それまでのアメリカ全面従属の外交を改めることを期待していた。
 そして、こうした改革を進めようとすれば、前には大きな障害が立ちはだかることを予想し、これらの障害を排除しながら改革を進めてゆくことを民主党に期待していた。
 しかし、民主党には妨害勢力と闘う意思も力もなく、その用意もなかった。その当然の結果として、政権はこれらの妨害のために、あっという間に立ち往生してしまった。この事態は、民主党とともに旧勢力と一戦を交えようと考えていた人達に、深い失望感を与えた。

 民主党政権低迷の最大の原因は、ここにある。
 要するに、民主党政権は、その抱負の大いさに比して、権力闘争を戦い抜けるだけの地力、腕力、智力に欠けるのである。この点では、民主党は、旧社会党と比べても、ひ弱である。
 更に言えば、民主党をネットなどで支えていた人達も、また、ひ弱であった。かつての自民党のような地縁、利権によって組織された支持組織があるわけでもなく、旧社会党のような社会運動、市民運動に支えられていたわけでもない。共産党公明党のようなイデオロギーに支えられた支持組織があるわけでもない。

 結局、民主党は、その政策方向の良質さにもかかわらず、権力闘争に弱いことによって、今日の事態を招来している。だから、課題は、権力闘争を行えるだけの地力を、どうやって鍛えてゆけるかである。

 現在の民主党政権の迷走に直面して、民主党に期待して一票を投じた有権者の少なからぬ部分が「小沢信者」になってしまう理由がここにある。小沢しか、権力闘争を担えないだろうと考えているからである。
 それにもかかわらず、民主党内の小沢に対する空気は、暖かいとは言えない。小沢さえ切れば民主党攻撃が止むと考えている人がいたり、小沢は「旧民主党」とは異質な存在だと考えている勢力がいたりする結果ではあるが、更に掘り下げると、小沢という政治家は、結局、周りの者から真の信頼を得られない性格なのではないかという問題に突き当たる。
 これまで小沢が動くところ、様々な合従連衡が起こり、消えていった。しかし、その結果は、いつまで経っても安定した多数派結集が実現することはなかった。小沢は天下を取るには、敵が多すぎる。この小沢という政治家が持つ特質が、冷戦終結後の日本の政界で再編がうまくゆかず、果てしない合従連衡の連続となった一つの原因であろう。

 そして、そうした小沢に頼らなければ政権を取れず、政権を維持できないというところに、民主党のジレンマもある、ということであろう。