安保法制反対運動の総括

 昨年の安保法制に対する反対運動は、この種のテーマを対象とする運動としては、久方ぶりの盛り上がりを見せた。しかし、国会で圧倒的な議席を擁する安倍政権を追い詰めるには至らず、法案は国会を通過した。
 その後、運動のあり方を巡って、ネットなどで議論が交わされ、特に今回の運動で脚光を浴びた学生団体のSEALDs(Students Emergency Action for Liberal Democracy - s 自由と民主主義のための学生緊急行動)とこれに同伴した集団(あざらし隊とかSEALDs防衛隊とか呼ばれていた人達)の評価について様々な意見が出された。
 昨年、私は所属する団体の安保法制反対運動に若干のかかわりを持った。しかし、運動の中では末端のお手伝いをした程度で、この運動を担った諸団体・集団・個人のいずれかに加担し、或いは、反対する立場にはない。以下に述べることは、このような運動の末端にいて特定の立場に組していなかったその意味では「一般大衆」による、運動中枢にいた人達に対する、傍観者的感想以上のものではない。また、運動体の内部事情に通じているわけでもないので、思わぬ間違いがあった場合はお許し願いたい。

 安保法制反対運動は全国で繰り広げられたが、その中心は安保法制が審議されていた東京の国会周辺であった。この国会周辺を中心とする運動には安保法制に反対する様々な人達が集まっていたが、主要な団体・集団を挙げると、1.新旧の既成左翼の連合体である「戦争させない・9条壊すな! 総がかり行動実行委員会」、2.「立憲デモクラシーの会」「安全保障関連法に反対する学者の会」などの知識人集団、3.SEALDs及びこれに同伴した集団(あざらし隊とかSEALDs防衛隊とか呼ばれていた人達)、4.中核派などの新左翼セクト、が頭に浮かぶ。

 このうち、1.の総がかり行動実行委員会は、多様な市民団体や宗教団体、それに若干の新左翼系の人びとも混じっていたようだが(総がかり行動の「顔」となっていた高田健氏や菱山南帆子氏は、元を辿れば新左翼系の人達であろう)、基本は社共共闘であり、なかなか一本化できなかった社民党(旧社会党)系と共産党系が情勢に迫られて運動の一本化を果たしたところにその意義が認められよう。同様の流れは、東京だけでなく、大阪などでも認められた。
 運動が盛り上がりを見せた8月30日には、国会前に3万人ないし12万人が集まったとされるが、その多くは総がかり行動実行委員会の呼びかけによるものだったと思われる。
 この総がかり行動実行委員会に集まっていたのは、60年安保・70年安保当時から反戦平和運動に取り組んできた人達であり、運動の主力部隊は、依然としてこの人達によって支えられていた。

 しかし、周知のことながら、これら伝統的な左派・リベラル勢力は、年々やせ細り、高齢化していっており、従来通りの運動形態を続けていては、じり貧を避けられない。このため、今回の運動では、安保法制に反対する共産党社民党、それに民主党などの野党勢力と協力することに加えて、2.の知識人集団や3.の学生団体SEALDsが脚光を浴びるように、「これまでの運動とは違う、組合などの動員ではない、若い層が個人として参加している」というイメージが広がるよう、広報戦略が練られていた。そして、この広報戦略は一定の効果を上げていたように思う。総じて運動を束ねていた人達の戦略は老獪であり、現在の運動総体が出せるだけの力一杯は結集しえていたのではなかろうか。それでも阻止しえなかったのは、現在の運動総体の力量の限界だというほかはない。

 60年安保・70年安保当時に街頭に繰り出した人々の数は、今回の運動の比ではなかった。社会党・総評ブロックという強大な勢力は30万から100万に近い動員力を有していた。これに加えて、全学連だけでも万余の数を結集していた。70年安保で運動が盛り上がっていた1969年頃、京大の全共闘系の集会だけでも約3000名の学生が集結していたという。これに対して、今回の学生団体SEALDsはコア部分に限ると200名前後だったのではないだろうか。頭数の点で、今回の運動が60年安保・70年安保と比べて弱体であったことは隠しようもない。

 これに対して、60年安保・70年安保が労働組合や政治党派による集団動員だったのに対して、今回、国会に集まってきていたのは安保法制の審議に危機感を持った個人の自発的参加だった点に今度の運動の新しさがあるという評価が、しばしば運動体から発信されていた。
 しかし、60年安保・70年安保の際に集団動員が主力だったことは事実だが、だからといって、個人の自発的参加がなかったというのは事実と異なる。60年安保でも70年安保でも、「声なき声の会」や「べ平連」のような個人参加を主体とした運動体があったし、そもそも全共闘という運動自体が、個人参加を主体とした「組織ならざる組織」として組み立てられていた。60年安保の時、私は小学生だったが、自宅の中で、大学生だった兄と二人で腕を組んで「安保反対、安保反対」と「デモ行進」をしていたことを記憶している。ことほど左様に、当時は、国民一般の中に「安保反対」「岸を倒せ」の声が充満していたのである。

 だから、60年安保・70年安保と違って今回の運動は自発的な個人の参加で支えられているという見解は、集団の力が弱まっているため、運動盛り上げの為には個人の参加に期待せざるを得ないという運動論上の事情による広報戦略の一環だったというべきだろう。そして、実際には今回の運動でも、、国会前の運動の主力を担っていたのは総がかり行動実行委員会に率いられた集団的な力であったことは、既に述べたとおりである。