安保法制反対運動の総括・その2

 今回の運動の特徴の一つに、学者や弁護士といった知識人集団が運動の前面に出ていたことが挙げられる。これらの知識人集団は、独自に動くに止まらず、弁護士会のように集会の主宰者を買って出て、とかくまとまりにくい諸集団の接着剤的役割を担ったり、学生団体SEALDsの集会に参加して応援演説を行ったりという形で、運動の盛り上げに力を貸していた。

 今回のようにまとまった形で知識人集団が運動の前面に出てきたのは、60年安保以来であろう。それだけ今回の事態に対する危機感が強かったからであるが、かといって、これら運動に参加した学者や弁護士が大学や弁護士会の多数派だったとは言えない。むしろ、全体から見れば少数にとどまっていたのが実態ではなかったか。各大学でも有志の集まりという形で運動に参加する者はあったが、かつての60年安保のように教室での授業が終わるや、学生と教授が集って国会前のデモに参加するという盛り上がりにまでは遂に至らなかった。

 結局、全国津津浦浦の大学で反対運動が澎湃として巻き起こったというような事態には程遠く、大学全体では若干のさざ波は起こし得たものの、大勢は凪ぎの状態が続いていたというのが実際であろう。つまり、SEALDsなどを除けば学生が後に続かない知識人の突出であったという点が60年安保との違いであり、学者・教授と学生(の多数)の温度差が目に付いたように思う。その落差を埋めるためのSEALDsなどの仕掛けだったと思うが、運動収束後のSEALDsなどに対するバッシングを見ると、70年安保以降のこの国における非政治化、右傾化、無関心、シニシズムの流れは、依然として強いように思う。この点が運動の最大の隘路であり、この問題を考えるには、この国ではどうしてここまで運動が衰弱してしまったのかという問題に行き着く。そして、この問題が運動収束後のSEALDsやその周辺集団の運動を巡ってネット上で繰り広げられている論争の核心であるように思う。