安保法制反対運動の総括・その3

 50年代・60年代の学生運動は,東大・京大などの有名国立大学や早大・慶大などの有名私立大学を拠点とし,当時の先進思想とされた共産主義社会主義に影響を受けていた。当時は戦前と比べると大学の大衆化が言われていたが,まだまだ大学進学率も低く,とりわけ有名大学の学生は,将来のエリート層として,自分たちが将来の日本社会を担うという意識が強かった。
 60年代末期からの全共闘運動は,こうした従来型の学生運動を乗り越え,大衆化した学生の自己表現という側面を有し(特に日大闘争など),このような側面に光を当てた評価も見受けるが(小熊英二「1968」がその代表である),従来型のセクト学生運動も強力で,結局,全共闘運動はこうしたセクト学生運動ヘゲモニーに吸収されていった。

 今回の安保法制反対運動で脚光を浴びた学生団体SEALDsは,こうした従来型の学生運動と比べて,どのような特色を有していたであろうか。
 まず,運動を担っていた学生は,いわゆる1流どころの大学ではなく,中堅の比較的地味な大学に所属する学生が多かった。そして,運動に入ってきた経路は,理論的な探究の挙句に社会的政治的問題に関わってゆくというよりは,自分探し的なアイデンティティの模索から社会への関心に目覚めていったという学生が比較的多いように見受けられた。SEALDsの集会では,参加した学生が一人ひとり演壇に立って,どうして自分が運動にかかわるようになったのかを自分史を語る形で演説していたが,こうした自分語りの演説は新鮮で,聴衆を引き付ける力を持っていた。
 運動の様式にも工夫が凝らされ,リズミカルでポップなコールは分かりやすく説得力のある言葉が選ばれていたし,コーラーもプロの活動家というよりは,普通の学生という雰囲気を漂わせていた。

 こうした学生を中心とするSEALDsの周辺に,より年長の「あざらし隊」とか「SEALDs防衛隊」とか呼ばれていた人達が影のように寄り添っていた。外からはしばしばこれらの人達の中心人物の一人と目されている野間易通氏の「雲の人たち」(ttp://wk.tk/Q5wTJh)によれば,こうした運動の流れは2003年のイラク戦争反対の運動から始まり,離合集散を経ながら,3.11後の反原発運動における反原連,その後の反レイシズム運動における「しばき隊」,そして安保法制反対運動へとつながってきたようだ。30〜40代の,アート・ポップカルチャー周辺の人が多いようで,思想的にはリベラル左派的傾向を持った,無党派個人の集合とされている。こうした流れは,「クラウド型運動」とか「ストリートの思想」とか呼ばれている。野間氏の「雲の人たち」は,イラク反戦運動以降のこうした運動の流れを要領よく紹介している。

 このSEALDsと「あざらし隊」「SEALDs防衛隊」との関係について,両者はお互いが集団として同一または連携していることを公には認めていない。しかし,外から見ていると,SEALDsの中心メンバーと野間氏とがtwitter上でやりとりを交わしていたりして,その関係はかなり近しいものに見える。実際には,両者は,SEALDsが純真で素朴な学生さんの手作りの運動を演じ,中核派の排除といった「汚れ仕事」は「防衛隊」が行うという役割分担の関係にあったのではないか。

 こうした見方を踏まえて,SEALDsと「防衛隊」を一体の運動体として捉えた場合,この運動体は以下のような特徴を持っていたように思う。

 この運動は明確な組織と代表者を持った「セクト」型運動ではなく,無党派個人のゆるやかな集合体である。欧米の同種の社会運動の影響を受けており,発想にも似たところがある。
 アート系や「自分探し」から出発しており,発想が多様で個人的である。
 反面,政治思想的には欧米流の「自由と民主主義」の枠内にとどまっている。しかし,この点も個人差があり,SEALDsのメンバーの演説の中には,欧米が「自由と民主主義」の名の下に戦争を発動していることに疑問を呈していたものもいた。
 既存の運動の思想や様式を刷新しようとする志向が強く働いており,とりわけ,中核派などの新左翼セクトに対しては明確な拒絶の意思を表明していた。反面,日本共産党社民党民主党とは共闘路線を取った。
 結局,この運動は,系譜としては,60年安保における「声なき声の会」,70年安保における「べ平連」のような,無党派市民の運動の流れを組み,思想的にも運動様式においても親和性を持つが,新左翼セクトと明確に一線を画するという点で,70年安保における全共闘ノンセクト・ラディカルと異なり,この点ではむしろ日本共産党との親和性を持っていたと映った。