プーチンの政治的任務

 ロシアの政治的指導者としてのプーチンに科せられた任務は、ソ連解体に伴う混乱を立て直し、秩序と安定を取り戻すことだった。

 ソ連レーニンスターリンによって作られた共産主義国家だった。それはいわゆる西側国家とは異質の原理によって構成された、それなりに自足的な政治・経済・社会システムであった。それが、ゴルバチョフエリツィンによって、西側の原理が導入されたことにより、ソ連という社会体制は、トランプの城のように崩れていった。そのあとに自由民主主義的・資本主義的な社会が誕生するというのは幻想に終わり、混沌(カオス)だけが残った。

 政治社会体制を何とか再建することと同時に、民族主義のもたらしたソ連構成共和国の独立とそれに伴うソ連の解体についても、独立後の諸共和国とロシア連邦の関係をどう構築するかという課題にも解決を迫られていた。

 しかも、第二次大戦後の日本や西ドイツに対する処遇と異なり、アメリカや西欧はロシアを敗戦国とみなし、ロシアを瓦礫の中に放置したばかりか、ドイツ統一のときの約束に反して、NATOの東方への拡大を続けた。

 プーチンが引き継いだ1990年代のロシア連邦は、このような惨憺たる状態からの再出発を迫られたのである。

政治家プーチン(2)

 政治を行うに当たってリアリズムを理解していること、清濁併せのむ必要があること、権力闘争を厭わないこと、国家・社会の統合に気を配ること等々は、如何に理想肌の政治家であってもおろそかにすることはできない。さもなければ、その政治家は、政治家としては敗者になってしまう。この点は洋の東西を問わず、いわゆる「自由民主主義国家」であっても、同じである。

 従って、プーチンが政治家としてリアリストであり、強権を振るうことに躊躇せず、権力の集中と統合に熱心であったとしても、これらの点を以て「自由民主主義国家」とは異質の政治家だとは言えないし、精神に異常があるとも言えない。

 尤も、上に挙げた諸点において、プーチンが極めて徹底した権力政治家であり、権力を行使することに躊躇しないことは事実である。従って、いわゆる「リベラル」な政治信条を持つ者にとっては、プーチンは「好ましからざる人物」に見える。

 プーチンロシア連邦からの独立を求めたチェチェン独立の動きを徹底した軍事的弾圧によって鎮圧した。これが大統領としてのプーチンの出発点であり、このチェチェン鎮圧の成功が、民衆によるプーチンの支持を押し上げた。次いで、旧ソ連構成共和国だったグルジア(現ジョージア)がNATO加盟の動きを見せると、戦車部隊を派遣して押しつぶした。続いて、中東シリアにおいては、内戦下で窮地に立ったアサド政権にテコ入れし、軍事介入によってアサド政権を助けた。

 また、国内においてはプーチンに盾突く政治家、実業家、ジャーナリストらを次々と弾圧し、時には毒殺までした。

 今回のウクライナ戦争において、プーチンの手法に対する反発が強く、バイデン政権による「民主主義対専制主義の戦い」という言挙げが一定程度受容されているのも、こうしたプーチンの政治手法に対する嫌悪感のもたらすものである。

政治家プーチン

プーチンとはどのような政治家なのか。

 しばしばソ連邦時代の政治の延長上に捉えられるプーチンには、しかし、共産主義やら自由民主主義といったイデオロギー色は薄い。

 プーチンは、リアリスト、国家主義者、権力政治家である。

 およそ、政治には、リアリズム、国家体制の護持、国益の追求、権力の行使という、いわば綺麗ごとではすまない作用が伴う。それは、共産主義体制であれ、自由民主義体制であれ、変わりはない。そして、国家の中には、こうしたいわば国家の闇を担う者が必ず存在する。KGB出身者であるプーチンは、まさにこのような資質を持った政治家である。

プーチン登場の背景

ブレジネフ時代のソ連は硬直化した体制の下で停滞を続けていた。

ブレジネフ後のアンドロポフ、チェルネンコと2代の短命政権の後、ゴルバチョフが書記長となり、ペレストロイカと呼ばれる改革政治が開始された。

ペレストロイカ言論の自由を尊重するグラスノスチ(情報公開)や民主主義の活性化など、政治領域の改革に重点が置かれた。これは同時期に改革開放を進めていた中国の鄧小平が経済改革を主としていたのとは対照的であった。ゴルバチョフは自らを社会主義者共産主義者と考えており、体制の硬直化を政治的な自由主義・民主主義を導入することで、改革しようとしたのである。

しかし、ペレストロイカの推進は、ソ連が強権によって押さえつけていた様々な異論を解放し、併せて、連邦内諸民族の民族主義を活性化させた。ソ連体制は混沌化し、最終的には東欧諸国のソ連圏からの離脱、ソ連邦自体の解体に至った。

保守派によるクーデター未遂を制圧したエリツィンは、この事件を契機にゴルバチョフから権力を奪い取り、ソ連邦解体、社会主義経済体制の資本主義体制への一挙的変換と急進改革路線を推し進めた。こうした過程で社会主義経済体制下の国有財産はその管理権限を担っていた者たちに二束三文で払い下げられ、このことで財をなした者達(オリガルヒ)が、ロシア経済を牛耳ることになった。IMF等の指導の下になされた急進的資本主義化路線はソ連社会主義経済体制はトランプの城のごとく崩壊し、ロシアの経済規模はソ連時代の5割程度にまで縮小した。この過程で、社会主義体制下で不自由ながらも安定した雇用と年金等の社会保障を保証されていた庶民達は、不正蓄財と自由競争の荒波に飲み込まれ、塗炭の苦しみを味わうことになった。また、ソ連邦解体に伴いソ連邦構成共和国が独立したことにより、2500万人に及ぶロシア人が独立した諸共和国に取り残されることになった。

こうした事態が続いた1990年代の経験から、少なからぬロシア人は、災いをもたらしたのはゴルバチョフエリツィンが導入した西側の自由民主主義と資本主義だ、現在よりもソ連時代の方がよかった、ロシアには強い国家が必要だと考えるようになった。そして、こうした民衆の少なからぬ部分が抱いている考えが、プーチンの長期政権化を支えているのである。

 

3つの世界大戦

現在、世界は3つの世界大戦が展開されているようなものである。

第一は、《自然界》と《人間界》との間の軋轢によって生じているパンデミックや気候温暖化などの世界的災害。

第二は、主にアメリカ(及びこれに従属的な形で加わる日本)と中国とのあいだの、「自由民主主義」「人類共通の価値観」対「カッコつきの社会主義共産主義らしきもの」「中華文明4000年」を掛け金とする、場合によっては20年~30年にも及びかねない「新/米(日)/中/冷戦」。

第三は、ロシアのウクライナ侵攻に伴う、ロシアとアメリカ/NATOとの間に発生した、経済制裁や「国際世論の喚起」という形での「ハイブリッド戦争」。

いずれも、未だ「世界大戦」と呼ぶには大袈裟といえようが、かといって収束の兆しは見えず、一つ間違えば本当の世界大戦に発展してもおかしくない、危険性をはらんでいる。

ニューヨーク滞在記(8)

 ニューヨークに行ってみようと思い立ったきっかけの一つが、NHKのBSで放映されている海外ニュースの紹介番組「キャッチ!世界のトップニュース」で、毎週土曜日に放映されていたマイケル・マカデアさんのニューヨーク紹介番組「@NYC」だった。マカデアさんの切り口は軽妙で、時には、トランプ現象に対するニューヨーカー達の辛辣な批評のインタビューや、ニューヨークで試みられている新しい文化的ムーヴメントの紹介など、ニューヨークが様々な領域で世界の最先端を発信している都市であるというメッセージを発していた。ニューヨークひいてはアメリカを特権的な場所として紹介し、日本人のアメリカに対する親近感を強化しようとする意図に出た番組と思いつつも、そこで紹介されるニューヨークという街は魅力的で、私たちもいつしか、なんといってもニューヨークは世界の首都なのだという思いを抱くようになっていた。

 思えば、ニューヨークが単なる商業の街にとどまらず、文化的にも世界の先端を走っているというイメージは、流行歌でいうと、八神純子の「パープルタウン」あたりからではなかったか。それ以前のニューヨークのイメージは、エンパイヤステートビルディングに代表される摩天楼の街というものであり、即物的な印象が強かったと思う。

 そうして、実際にニューヨークを訪れてみて、マカデアさんの紹介するニューヨークは、もとよりニューヨークの中に存在していたのであろうが、私たちが街をぶらついてみて何とはなしに感じたニューヨークは、少し違う相貌を見せているように思えた。

 待ちゆく人々は、概ね、厳しく、険しい表情を浮かべているように思えた。アメリカ人というときにステレオタイプで思い浮かべる陽気で自由な人たちというのは、そういう人もいたことはいたが、むしろ、そRは少数のように見えた。この街で生き抜いてゆくことは大変なのだろうなと思えた。

 ニューヨーク滞在を終えて大阪の電車に乗り、乗客の表情をそれとなく観察していると、ニューヨークの人たちの表情に比べて、如何にものんびりとして、警戒心のない、平和な表情をしているように見えた。「ああ、人間の住む国に帰ってきた」と感じた。日本に帰国してこんな感想を抱いたのは、今回のニューヨーク訪問が初めてである。

 ニューヨーク滞在中に驚いたのは、ホームレスの人々の多さである。西欧の街でも上海でもホームレスはいたが、ニューヨークほどホームレスが目立ったのは、これまで経験したことがなかった。ウォールストリートであれ、五番街であれ、街中の至るところに、地下鉄の乗車口に、街路に、ホームレスが溢れていた。彼らは、しばしば、ダンボール紙に「私はホームレスです。助けてください」と援助を乞うていた。ホームレスは老若男女を問わず、人種を問わず、白人の少し前まではそれなりの生活をしていたのではないかと思われる人たちも混じっていた。この街では、ひとつ歯車が狂うと、一転してホームレスに転落するようなことが起こるのではないかと思われた。

 街角の一角に、白人の少女とおぼしきホームレスが座り込んでいた。その表情なり身なりなりは、およそホームレスというにはふさわしくない、どこかで間違ってホームレスに転落したのではないかと思われる雰囲気を漂わせていた。

 少女は持っていたパンをちぎっては、そばにいた鳩に分け与えていた。すぐに鳩が群がり、少女は飛び交う鳩の群れの中に囲まれた。それは印象的な風景で、通行人が足を止め、写真撮影し、施しを与えていた。それは、少女の施しを受けるための芸であったのだろうが、私には、ニューヨークという街を象徴する風景に見えた。

ニューヨーク滞在記(7)

ニューヨークは摩天楼の街である。

既に戦前からニューヨークはエンパイアステートビルを代表とする天を衝く摩天楼の林立する街であった。それは、19世紀におけるパリやロンドンなどの古典的な建築と好対照をなして、20世紀の覇者アメリカを象徴する建造物だった。

今日においても、ニューヨークはいたるところに見上げるような摩天楼が立ち並んでいる。トランプ大統領の登場で有名になったトランプタワーも拝見してきた。

こうした摩天楼の中では、有名なウォール街をはじめとして、世界を動かすアメリカの大資本が、日々活動を続けているのであろう。