プーチン登場の背景

ブレジネフ時代のソ連は硬直化した体制の下で停滞を続けていた。

ブレジネフ後のアンドロポフ、チェルネンコと2代の短命政権の後、ゴルバチョフが書記長となり、ペレストロイカと呼ばれる改革政治が開始された。

ペレストロイカ言論の自由を尊重するグラスノスチ(情報公開)や民主主義の活性化など、政治領域の改革に重点が置かれた。これは同時期に改革開放を進めていた中国の鄧小平が経済改革を主としていたのとは対照的であった。ゴルバチョフは自らを社会主義者共産主義者と考えており、体制の硬直化を政治的な自由主義・民主主義を導入することで、改革しようとしたのである。

しかし、ペレストロイカの推進は、ソ連が強権によって押さえつけていた様々な異論を解放し、併せて、連邦内諸民族の民族主義を活性化させた。ソ連体制は混沌化し、最終的には東欧諸国のソ連圏からの離脱、ソ連邦自体の解体に至った。

保守派によるクーデター未遂を制圧したエリツィンは、この事件を契機にゴルバチョフから権力を奪い取り、ソ連邦解体、社会主義経済体制の資本主義体制への一挙的変換と急進改革路線を推し進めた。こうした過程で社会主義経済体制下の国有財産はその管理権限を担っていた者たちに二束三文で払い下げられ、このことで財をなした者達(オリガルヒ)が、ロシア経済を牛耳ることになった。IMF等の指導の下になされた急進的資本主義化路線はソ連社会主義経済体制はトランプの城のごとく崩壊し、ロシアの経済規模はソ連時代の5割程度にまで縮小した。この過程で、社会主義体制下で不自由ながらも安定した雇用と年金等の社会保障を保証されていた庶民達は、不正蓄財と自由競争の荒波に飲み込まれ、塗炭の苦しみを味わうことになった。また、ソ連邦解体に伴いソ連邦構成共和国が独立したことにより、2500万人に及ぶロシア人が独立した諸共和国に取り残されることになった。

こうした事態が続いた1990年代の経験から、少なからぬロシア人は、災いをもたらしたのはゴルバチョフエリツィンが導入した西側の自由民主主義と資本主義だ、現在よりもソ連時代の方がよかった、ロシアには強い国家が必要だと考えるようになった。そして、こうした民衆の少なからぬ部分が抱いている考えが、プーチンの長期政権化を支えているのである。