被災経験について


 3月11日の地震から約2週間が経過した。

 私は16年前の阪神淡路大震災の時、激甚災害地区だった西宮市で、地震を身を以て体験した。それ故に、今回の地震についても、自分の地震体験の記憶を重ね合わせながら、見守っている。

 地震が起こった後、被災地の住民と外の住民とは、同じ出来事を違った経験として受け取るようになる。
 外の住民は、テレビや新聞などのメディアが提供する情報を通して、間接的に被災地の出来事を受け取る。そして、メディアを離れれば、いつもながらの日常生活に囲まれて日々を送ることになる。
 これに対して、被災地の住民は、テレビ、新聞等が流す情報の客体、対象にされる。住民は、電気が通っていないなどの理由で被災地以外で流されている被災情報を自らは見ることができないか、見られたとしても、東京が自分たちをどう見ているのかという情報として、お互いに見つめあうようにして、受け取る。そして、メディアを離れたとき、被災者を取り囲む風景は、撤去されないまま残されている瓦礫の山であり、寸断された道路であり、水や日用品の心配をしなければならない被災地での生活である。

 この両者の経験、生活の違いは、両者をして全く別の世界に住む住人のように隔ててしまう。この齟齬が、しばしば両者の軋轢を生じさせる。

 今回の地震を、私は外の住人として、メディアを通して覗き込むようにして、間接的な情報として、経験した。16年前の被災者としての体験の記憶に照らして、それは、どこか、居心地の悪い気持ちを残す。